常設展示「梅花学園のあゆみ」

学園資料展示ホールでは、1878年梅花女学校開学に始まる梅花学園のあゆみを写真、資料等により紹介しています。

・展示場所 澤山記念館 1階 学園資料展示ホール
・展示時間 平日(学園休業日を除く) 9 時 ~ 16 時

 
澤山記念館 学園資料展示ホール写真1   澤山記念館 学園資料展示ホール写真2
 

梅花学園のあゆみは、1878(明治11)年1月、浪花公会(現浪花教会)の創立者で初代牧師であった澤山保羅(さわやまぽうろ)が中心となって、浪花公会と梅本町公会(現大阪教会)のキリスト教信者の有志が大阪の土佐堀に開校した梅花女学校に始まります。当時の学制における正則英学校としてのスタートでした。
大阪府の学校開設認可事項に合わせるため、公立学校の教員で浪花公会の信者である小泉敦が校主になります。教師陣は本邦科を担当する成瀬仁蔵、古木寅三郎、アメリカンボードから派遣された英語科担当のミス・スティーブンスおよび音楽科担当のレビットの4名でした。土佐堀裏町10番地の民家を校舎として借りて開校しましたが、借主の都合で移転しなければならず、浪花公会や梅本町公会を転々としました。しかし翌1879(明治12)年には梅本町、浪花、天満の三公会の信者の募金により土佐堀の開校の土地を買い取り校舎を建て、変則中学として再スタートしています。
1908(明治41)年、生徒数の増加のために梅花女学校は土佐堀から北野に移り、この地で高等女学校、女子専門学校が開校しました。さらに1926(大正15)年、両校は豊中に移転します。戦後の学制改革により1947(昭和22)年に梅花中学校、1948(昭和23)年に梅花高等学校が開設されます。1964(昭和39)年には茨木市宿久庄に梅花女子大学が開学されました。今日、梅花学園は、豊中校地に高等学校・中学校・幼稚園、茨木ガーデンキャンパスに大学を擁する女子総合学園として発展を遂げています。
学園資料展示ホールでは、1878(明治11)年以来、2018年に140周年を迎える梅花学園のあゆみを写真、資料により紹介しています。みなさまのご見学をお待ちしております。

 
■おしらせ


創立者 澤山保羅の書 「爾凡所欲 人施諸爾 者爾必如 是施諸人」

梅花学園の学生・生徒・教職員にとって、創立者 澤山保羅の書と言えばすぐに目に浮かぶのが、「爾凡所欲 人施諸爾 者爾必如 是施諸人」の扁額でしょう。四字四行は、マタイによる福音書7章12節中の聖句の清朝時代の中国語訳です。
新共同訳聖書では「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と訳されるこの聖句は、梅花学園のスクール・モットーでもあります。
本学名誉教授 高橋喜一先生がこの四字四行を「縦横の規格にきっちりと適いつつも窮屈を感じさせない。それぞれの文字を見ても、てらいのない格調の高い書きぶりである。」と評され、漢文式に通読する試策を次のように示しておられますので、ご紹介します。

「これを見る度に、私はこれを漢文式に通読すればどうなるだろうかと考えて来た。勿論清朝時代の中国語訳であろうから、漢文として読むのは無理かも知れないが、試策としてつぎのような訓じ方を示しておこう。
なんぢすべて、人のこれをなんぢに施さんことを欲する所は、なんぢ必ず是くの如く諸人に施せ。

(浪花教会会報創立130周年記念号(2007年1月)より)

 
保羅自筆愛誦聖句

澤山保羅の直筆書簡と澤山馬之進(保羅)宛書簡を新たに展示しています

澤山保羅に関する研究は、梅花学園澤山保羅研究会によって様々な角度から進められてきました。同研究会は、2001年出版の『澤山保羅全集』において澤山の書簡を含む全著作を明らかにし、その後、これらのオリジナル資料をマイクロ・フィルムに収める作業を行っています。梅花学園が所蔵する資料はあまり多くはなく、資料の中心は浪花教会所蔵の300点余りの書簡でした。
昨年末、このマイクロ・フィルムが澤山保羅研究会から学園資料室に移管されましたので、これを機に、浪花教会のご了解も戴いて、澤山保羅書簡を複製展示することとしました。
今回は、澤山直筆書簡と澤山宛書簡各1点をご覧戴きます。

・澤山直筆書簡は、1883(明治16)年6月21日、梅花女学校校長に就任した頃の31歳の澤山保羅が郷里の知人に宛てたものです(梅花学園所蔵)。
宛名人の谷川熊五郎は、大阪在住の澤山から、山口吉敷にある澤山家の屋敷、田畑の管理を任されていた人物です。
澤山は谷川に、手紙での慰問と送金と出納表同封を感謝し、妻多可死去(澤山の妻 多可はこの年5月30日に肺結核のため死去しました。)に際しては寂しい思いもしたが、彼女が死に際してただ神を信頼し平安の信仰をもってこの世を去ったことを思い起こし、天国で会えることを可能と信じ喜んでいる、と述べています。さらに、雄之助(澤山の弟)は夏期休暇中は大阪で一緒に住む、いさ(澤山の長女)は成瀬(仁蔵)宅にやった、今夏は雄之助も自分も帰郷しないのでよろしく、と伝えています。

・澤山宛書簡(英文)は、1875(明治8)年7月17日、宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンから米国留学中の23歳の澤山馬之進(保羅)に送られた励ましの手紙です(浪花教会所蔵)。
手紙の発信人ダニエル・クロスビー・グリーンは、アメリカン・ボードから日本に派遣された最初の宣教師でした。若き澤山はグリーンに英語を学び、やがて米国に留学することになります。
手紙でグリーンは澤山の体の不調を案じ、それがシカゴの寒い気候に由来するものと考えて日本への帰国を促しています。ちょうど帰米中のH・H・レビット(アメリカン・ボードから大阪に派遣された宣教師で後に澤山に大きな影響を与えます。このとき病気のため一時帰米していました。)が秋に日本に戻るので一緒に帰って来ればどうか。京都では山本(覚馬)という人物が、この国はキリスト教を望んでおり、この国がキリスト教化せねばならないと考え、宣教師が京都で学校を開くことを熱望しており、知事が許可をくれるならば早急に学校を開こうとしている。山本の妹(手紙では娘と誤っています。1876年に新島襄と結婚した山本八重のことと思われます。)も女紅場の教師で聖書に興味を持っている、と伝えています。そして澤山に対して、あなた自身のためにも又あなたが牧師なり教師なり他の職業であろうと、あなたの大きな働きで同胞のためになるのだから体を大事にするように、と励ましています。

(梅花学園澤山保羅研究会代表茂義樹編『澤山保羅全集』(教文館)参照、引用)

女専時代の写真、資料等を拡充して展示しています。

1922(大正11)年、大阪府西成郡豊崎村の北野校地(現在の大阪市北区豊崎3丁目。 梅田芸術劇場から北に100メートルほどの場所です)に梅花女子専門学校が開校しました。北野校地には、梅花高等女学校(梅花中学校・高等学校の前身)が先に開校していました。女子専門学校は当時の専門学校令に 基づき設置され、高等女学校卒業者を対象とする修業年限3年の高等教育機関でした。略して女専と呼ばれ、大阪府下で最初に誕生した女専が梅花女専です。
1926(大正15)年に梅花女専は高等女学校と共に現在の豊中校地に移転します。同年、英文科に続いて国文科が開設され、1943(昭和18)年には家政科が開設されました(家政科は1944(昭和19)年に被服科と育児科に改組されます)。国文科には懐徳堂の学主を歴代に渡り務められた中井家の子孫中井終子先生が教員として梅花の教育に尽くしていただきました。
戦後の学制改革によって1952(昭和27)年にその歴史を閉じるまで、梅花女専からは1042名の卒業生が巣立ちました。

 
北野校地時代の梅花女専   豊中校地時代の梅花女専
「北野校地時代の梅花女専」   「豊中校地時代の梅花女専」
 
 

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梅花学園総務部 資料室
〒567-8578 茨木市宿久庄2-19-5
Tel 072-643-8447
Fax 072-643-1952